ただ彼岸に臨みて

本編終了後、封神された道徳を後追いして自殺した太乙のお話です。徳乙で雲乙です。

 何も無い空間で、太乙は目を覚ました。
(ここは……)
 そこには上も下もなく、光もなければ闇もなかった。ただ「空間」としか言いようのない、文字通り何も無い空間がどこまでも延々と広がっていた。広がっていたと言っても、そこには距離感というものもまた存在せず、どこまでもどこまでも「何も無い」という状態だけがただ存在するだけだった。
 太乙は己の身体を確認しようとしたが、どれだけ目を凝らそうと何も見いだすことはできなかった。いや、見たというのも語弊があった。そもそも「見る」ための器官も存在せず、ただ辛うじて周囲の状況が感知できると言った方が正しかったかもしれない。
(そうか、私、死んだんだ……)
 太乙は思い出した。ここに来る数刻前——いや数分前だったかもしれない。時間の経過などもはや意味をなくしていたのだから——洞府の一室に籠もり、塩酸と次亜塩素酸ナトリウムを混合して塩素ガスを発生させ、呼吸不全を起こして死んだことを。
 自殺を試みたのはこれが始めてではなかった。これまでも何度か自殺を試みてはいた。だが、魂魄が身体から抜ける前に間が悪く哪吒に発見されて雲中子のところに担ぎ込まれて蘇生させられたりするなどして失敗してばかりいた。今回は哪吒が蓬莱島の遠くまでパトロールに行ったタイミングを見計らって実行に移したため、どうやら蘇生は免れたらしい。
(そうとなれば、早く行かないと……)
 魂魄体となった太乙はただふわりふわりと漂うばかりで己の意思で動くことはできない。ただ、何かに吸い寄せられていくのは朧気ながら感じていた。
 やがて「それ」は魂魄体となった太乙に知覚できるところまでに近づいてきた。「それ」はこの空間においてはっきりとした質量と形状とを備えており、半球体の上に大きな山がくっついたような形をしていた。
(あれが、神界……)
 太乙の魂魄は神界に向かってその周囲をゆっくりと旋回しながら確実に近づいていった。太公望が考案し、燃燈が作ったそれを太乙が実際に目の当たりにするのはこれが初めてであったが、太乙にはそれこそが神界であるとはっきりと認識することができた。そして同時に、彼が命を捨ててまでも会いたかった愛しい人の魂魄の気配を。
 衛星のように神界の周囲を旋回しているうちに、やがて太乙はその端に自分とは別の魂魄体の気配を知覚した。それを認めるや否や、太乙の魂魄はふわりふわりと漂いながら一直線にその方向に向かって遊泳していった。
「太乙……」
 やがてその姿をはっきりと視認できる位置まで接近した時、その魂魄体の持ち主は慈しむように彼の名を呼んだ。
「やっと会えたね、道徳……」
 太乙もまた相手の名を呼んだ。道徳の魂魄体が両の手を広げると、太乙の魂魄体は吸い込まれるように彼の元に吸い寄せられた。同時に幻のような太乙の姿が空中に浮かび上がる。太乙はそのまま道徳の胸に飛び込んで相手の身体を抱きしめようとし、道徳もまた太乙をしかと抱きとめようとしたが、肉体無き魂魄体同士では触れることすら叶わない。ただ相手の幻が存在する位置に腕を回し合うことしか出来なかった。
「君がここに居ると言うことは、そうか、君の命も尽き果てたんだね」
 どこか悲しそうな笑みを浮かべて道徳が言った。それに対して、太乙は溢れんばかりの笑みを浮かべて答えた。
「ああ、君に会いたくてね。少しだけ寿命を縮めた」
 そう言うと彼の顔が驚愕に歪んだ。
「まさか、君、自ら命を絶ったんじゃ……」
「ちょっとした事故だよ。うっかり薬品を混ぜ合わせてしまってね」
「そんな……」
 魂魄体の道徳が色を失った。正確にはそのように見えたというべきか。そして痛みを堪えるような顔で言った。
「苦しかったんじゃないか」
「ああ。でも、君に会えるんだからそのぐらい何ともないよ」
 魂魄体の太乙はそう答えて微笑みかけた。そして再び道徳の姿に腕を回そうとするが、斥力のようなやんわりとした拒絶の意思に弾かれる。
「どうして……?」
「君はまだここに来るべきじゃない。オレのために死ぬなんて駄目だよ」
「そんな、そうは言っても私は現にこうして死んだんだ。そう言われても今更だよ」
「そうはいかない。はいそうですかと受け入れるわけにはいかないんだ」
 にべもなく拒否されて、太乙の顔がくしゃくしゃと歪んだ。そしてそのまま幻の涙を流す。
「何故だ。何故だよ、道徳……私は君と一緒にいたいのに。君が居ない生を生きても何の意味も為さないのに……」
「泣いたって駄目なものは駄目だ。君はまだ死ぬべき時じゃない」
 泣きじゃくる太乙の肩の辺りに触れながら、道徳が宥めるように言う。
「そうは言っても、私、もう死んだんだよ。魂魄体としてここに居るってことは肉体が完全に死んでいるんだ。もう戻れるものか」
「いいや。そんなことはないみたいだよ。ほら」
 そうして道徳が指さした先の空間に、見覚えのある姿が接近していた。こちらに向かって飛来するその姿を視認した太乙が幻の涙を止めて呟く。
「雲中子……」
 ワープゾーンの中を一直線に飛んできていたのは雲中子だった。但しこちらははっきりとした実体を持っている。どういう術を使っているのかすいすいと泳ぐように二人の元に向かって飛んできており、片手には大きな瓢箪を携えている。
「やはりここに居たか。帰るよ、太乙」
 雲中子が片手を差し出すと、太乙はさっと道徳の魂魄体の後ろに隠れた。
「いやだ。私はもう死んだんだ」
「死んでない。君の肉体は私が蘇らせた」
「そんなもの知るかい。魂魄体としてここに居るんだからもうそんなもの関係ないよ。私はここでずっと道徳と一緒に居るんだ」
 そしてそのまま身を縮め、雲中子から隠れるように道徳の肩の後ろに隠れる。だがそんな太乙の魂魄体を、道徳は自分の前に押し出した。
「どうして……」
「太乙、君はまだ死ぬべきじゃない。」
 雲中子が瓢箪の口を塞ぐ栓を取り払った。途端に太乙の魂魄は端の方から光の粒に変わり、その中に段々と吸い込まれていく。
「嫌だ。やめろよ雲中子、私は道徳と一緒に居るんだ」
 太乙は拒むがその姿は段々と薄くなっていき、光の粒になって瓢箪の中に消えていく。それを見送りながら、道徳は消えゆく太乙に語りかけた。
「太乙、君はもう少し生きてくれ。そして幸せな生を全うするんだ。いつか本当にここに来るべき日が来るまで……」
 太乙は何事か答えようとしたが、その声はもはや言葉として紡がれることはなく、残りの魂魄も全て雲中子の持つ瓢箪の中に吸い込まれていった。やがて全ての魂魄が瓢箪の中に吸い込まれた時、道徳は雲中子に言った。
「雲中子、太乙のことを頼むよ」
「ああ、言われるまでもない」
 そして来た時と同じように、雲中子は神界から離れてワープゾーンの向こうに飛び去って行った。道徳はその姿をいつまでも見送っていた。

 太乙が意識を取り戻した時、最初に知覚したのは喉の痛みだった。
「気分はどう?」
 声のした方向に顔を向けると、寝台の横に仏頂面をした雲中子が立っていた。
「喉が痛い……」
「まだ痛みが残っているかもしれないけど、しばらくの間我慢してもらうよ」
 次いで雲中子は大きなため息をつくと、若干の苛立ちを含んだ口調でまくし立てた。
「一回目は頸動脈の切断による失血死、その次は入水による溺死、そして今回は塩素中毒による呼吸不全での窒息死かい。いい加減にしたらどうなの、君」
 ぴしゃりと言い放った雲中子に対し、太乙は怠さの残る身体で起き上がって嗄れた声で反論する。
「全く毎度毎度余計な事をしやがって。放っておいてくれたらいいのに」
「そうは行かない。医療従事者として死にゆく者を放置しておくわけにはいかないからね」
「既に死んだ肉体を無理矢理蘇生させてそこに魂魄をねじ込むのも医療従事者の仕事なのかい」
「ああそうだ。君に限ってだけどね」
「それは職権濫用ってものじゃないのかな」
 太乙が冷ややかに言い放つと、雲中子は開き直ったように太乙の前に立って言った。
「職権濫用でも構うものか。少なくとも君を生き返らせることに対して異を唱える者はいない」
「私が唱えるよ。私は死にたくて死んだんだ。それを邪魔するのはお節介というものじゃないかい」
「私は君を生き返らせたくて生き返らせたんだ。これは私がやりたくてやっていることだ。君に何と言われようと止める気はない」
「ああそうかい」
 これ以上の口論は無駄だとばかりに太乙は口を噤んで横を向いた。雲中子も大きなため息をついたあと沈黙する。
「私じゃ駄目なのかい」
 しばしの沈黙の後、雲中子がぽつりと呟いた。
「私が君に生きていてほしいから、その理由だけじゃ不足なのかい」
「……」
「私はあいつの代わりにはなれないのかい」
「君は君だし道徳は道徳だ。代わりとかそういう次元でどうこう論じられるものじゃないよ」
 取りつく島もない太乙に、雲中子は再度ため息をついた。
「じゃあ、あいつのことはひとまず置いといて、私のために生きていてほしい」
「何が『じゃあ』なのかよく分からないけど、何で私が君のために生きなきゃならないんだい」
「君がいない世界を生きるのは嫌だからだよ」
「じゃあ、今度は二人一緒に死のう。そして道徳と三人で仲良く神界で暮らすんだ」
「それは却下だ。私も君もまだ必要とする人がいるんだ。死ぬわけにはいかない」
「……」
「あいつが君に死んで欲しくないと願っている。それじゃ駄目かい」
 雲中子がそっぽを向く太乙の隣に座り、譲歩を求めるように言った。太乙は相変わらず沈黙している。
「私のために生きろとは言わないから、それならせめてあいつのために生きてほしい。それも駄目かな」
 太乙は黙して答えなかった。それから更に長い長い沈黙の後、ようやく口を開いた太乙はこう言った。
「分かったよ。あいつのためとか、君のためとか、そういうのはとりあえず置いとくことにする。この問題自体、当分の間保留だ」
「それはいつまで?」
「当分は当分だ。数日後かもしれないし、私が死ぬまでの間かもしれない。でも、今すぐ結論を出せるもんじゃない」
 それを聞いた雲中子は、いつも通りの不敵な笑みを浮かべて言った。
「出来ればずっと保留にしてほしいね」
「ずっとはないよ。道徳に未来永劫会えないなんてまっぴらご免だからね」
「私も嫌だ。いつになるか分からないけど、君が本当に死ぬときが来たら、すぐに追いかけてそっちに行くよ」
「道徳を後追いして死んだ私を連れ戻したくせに、君は私を後追いして死ぬって言うのかい。随分身勝手な話だな」
「身勝手でも何でもいいよ。どうせその頃には私を咎める君もこの世に残っていないのだから」
 それだけ言うと雲中子は太乙に抱きついてその肩口に顔を埋めた。太乙は雲中子の身体を抱き返しながら、もう少しだけ道徳と雲中子のために生きようかとぼんやりと考えたのだった。

《了》

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