帰還

最終話の後、太公望が皆の元に帰ってくるまでのお話です。

楊太ですが太公望ではなく、楊戩が妊娠しています。

 蓬莱島の教主執務室の近くにある厠の中から、苦しげな呻き声が響いていた。
「うっ、うぐっ、ぐううっ……!」
 便器の前に片膝をつき、楊戩は胃の中のものを全てその中に吐き出した。吐いた後、しばらくそこから動けずに蹲っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 荒い息を吐きながら、吐いた後の不快感をやり過ごす。あまり人に見られたい姿じゃないな、と落ち着いてきた意識の片隅でそんなことを考えながら、楊戩はふらふらと立ち上がった。
 最近、楊戩はずっと体調がおかしかった。食欲がやたら旺盛になり、そのくせ今のように嘔吐してしまったり、このようなことは今までにあったことがない。最初のうちは新しい仙人界の教主となって仕事が増えたことによるストレスのせいかと思っていたが、ここまで酷いと業務にも差し障りが出る。ここは一度、雲中子に相談して診察を受けた方がいいのかもしれない。そう考えながら楊戩は手と口の周りを洗い、厠から出ていった。

 女禍との最後の戦いが終わり、はや三ヶ月が過ぎようとしていた。新しく再編された仙界はまだまだ混乱も多いながらもようやく落ち着きつつあった。
 そんなある日のこと、四不象と武吉は蓬莱島教主の楊戩の急な呼び出しを受けた。
「急に呼びつけてすまないね二人とも」
 執務室に二人を迎え入れ、雑多な書類や画面の浮かぶ机の向こうから楊戩は声をかけた。その顔には若干の疲れの色が浮かんで見える。
「忙しそうっすね楊戩さん。ちゃんと寝てらっしゃるんスか?」
「そうですよ。ちょっと顔色が悪いですよ」
 心配する二人に、楊戩は思い出したように笑顔を作りながら言った。
「ああ、心配ない、僕は大丈夫だよ。それより、あれから太公望師叔の足取りは掴めたかい?」
「それが継続的に情報収集と捜索は行っているんですが、さっぱり見つかる気配がないんです」
「あちこちで目撃情報は出ているんスけどねえ……」
「そうか。ああ、本当にどこをほっつき歩いているんだあの人は……」
 二人の報告に楊戩は頭を抱える。その様子にただならぬものを感じた四不象は問うた。
「楊戩さん、どうしたッスか?」
「実はね、その……」
 言いかけて楊戩は言いにくそうに言葉を切る。そして一瞬の逡巡の後、意を決したように身を乗り出して二人の目を見つめながら若干抑えた声で言った。
「今から言うことは誰にも言わず内密するということを約束してもらいたい」
「極秘任務ですか?」
「いや、極秘任務というよりも、僕の私的な事情があってね……」
 若干歯切れの悪い楊戩に、二人は安心させるように胸を張って言った。
「大丈夫ッス、どんな事情があろうと、絶対誰にも言ったりしないッス」
「僕も秘密を守ります! たとえお師匠様にだって言いません!」
「いや、どちらかと言えば、太公望師叔にも関わりのあることなんだ」
「どういうことッスか?」
「実はね……」
 そこで一旦言葉を切ると、楊戩は躊躇いがちに少し小さな声で言った。
「僕のお腹には太公望師叔の子がいるんだ」
「えええーーーっ!!!」
 執務室に二人分の驚愕の声が響き渡った。楊戩は慌てて二人を押しとどめる。
「しーっ! 声が大きいよ君たち。内密にと言っただろう?」
「え、あの、だって、そんな事って……」
「流石に僕もまさか妊娠しているとは思わなかったよ。ただ、最近どうも体調が優れない事が多くてね。それで雲中子に診てもらったら、お目出度だって……」
「でも、本当にご主人とのお子さんなんですか?」
「ああ、うん、それは間違いないよ。皆には公表していなかったけど彼とはその、パートナーだったし、身に覚えがあるのは彼一人だからね。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったし、恐らく彼も知らずにいるからこそ行方をくらましているんだと思うけど……はぁ」
 若干恥ずかしそうに言うと楊戩はがっくりと机の上に顔を伏せた。そんな楊戩を尻目に、武吉と四不象は思わず考え込むように額を寄せる。
「それにしても、あのお師匠さまがそんなことをするなんて……」
「僕も信じられないッス。しかし、春の過ぎたジジイだと思ってたらヤリ逃げなんて、そんな男の風上にも置けないような真似を!」
「あー、君たち、誤解があってはいけないので一応言っておくけど……」
 戸惑いや憤りを隠せない二人に対し、楊戩が居住まいを正し、きっぱりとした表情で言った。
「いつも『下』になっていたのは彼の方で、僕はいつも『上』だったからね。そこんとこ誤解のないように」
「え、でも、じゃあ何で楊戩さんのお腹に子どもが……」
「まあ、その、色々とあるんだよ。それはいつか追い追い説明するから今は置いといて……とにかく、そういうわけなんで、太公望師叔の捜索に継続して注力してほしい。必要なら人手も増やすから」
「了解ッス」
「わかりました」
 楊戩が妊娠した経緯についてはなんだか釈然としない武吉と四不象であったが、とりあえず今は黙って聞くことにした。

 だが、それからしばらく捜索を続けても、太公望は相変わらず見つからなかった。四不象や武吉は手がかりを求めて各地を駆け回ったが、依然として有力な情報は得られないままだった。神界の元始天尊の千里眼を以てしても、見つけることは出来なかった。
「楊戩様、あまり一人で気を病まれないでくださいまし」
「はぁ……」
 楊戩は、執務室を訪れたビーナスに慰めの言葉をかけられていた。最近ではつわりの症状も軽くなってはいたが、腹の方はそこそこ目立つ大きさになってきていた。
「わたくしたちもあの方の捜索に全力を尽くしております。あなた様の事情は伏せた上で、妖怪達には太公望さまに関する噂があったらどんな小さな情報でも申し出るように通達しておりますゆえ」
 楊戩の妊娠に関する情報は彼に近しいごく一部の仙道にのみ知られている事だったが、何故か彼女たち雲霄三姉妹もそれを知る者たちに含まれていた。
「それは大変助かります。ご協力感謝申し上げます、ビーナス殿」
「そんな、他人行儀で水くさいことをおっしゃらないで。あの方のもう一人の妻であるあなた様は、わたくしにとっても身内同然なのですから」
「いや、あの……」
 急に太公望の妻呼ばわりされたことで、楊戩は面食らって思わず口ごもる。が、ビーナスは構わずに話を続ける。
「あの方の妻としてあなたに先を越されたのが全く口惜しくないと申せば嘘になります。ですが、あの方がいらっしゃらない今、同じ太公望さまの妻であるあなた様を、全力を尽くしてお支え申し上げるのは、あの方の第一夫人として当然の努めでございますから……!」
「いや、まぁ、妻じゃないというか何というか……いや、パートナーであることは間違いないんですが、立場的にはどちらかと言えば逆なんですけど……」
 ビーナスは楊戩が子どもを身籠もったことで太公望の『妻』と思っているようだが、楊戩としては当然ながら自分の方が彼の『妻』になった覚えはない。そもそも夜は自分の方が『上』であったし、夜以外はどちらが『妻』か『夫』かの性別役割分担などもあろうはずがなく、敢えて定義するならどちらも『夫』であったと言える。しかし仮にも女性相手に太公望と自分どちらが『上』になっていたかを具体的に説明するのは気が引けるし、それを説明しても分かって貰えるかどうか疑わしいと楊戩は思った。
「とにかく、他にも何か困ったことがございましたら遠慮無くご相談くださいね。同じ太公望さまの妻同士のよしみ、お力になりますから」
「はい、ありがとうございます……」
 もはや『妻』云々の話を訂正するのは諦めた楊戩は、ビーナスに感謝の言葉を述べるのみに留めることにした。ああ、彼がここにいれば、こんなややこしい状況にはなっていなかったものを。がっくりと項垂れながら、楊戩はまだ見つからぬ太公望に心の中で密かに恨み言を吐いた。
 と、その時、ビーナスの持つ宝貝電話が鳴った。小さな鞄ほどの大きさのそれから受話器を取り上げて彼女は電話に出る。
「ちょっと失礼いたしますわよ。もしもし、クイーン? 今は教主様とお話し中だから、後にしてくれる?」
『いやさ、それが教主様のお耳にもお入れしたい情報でね』
「何かあったの? 教主様にも聞こえるようにするからちょっと待ってらして」
 そう聞いてビーナスは宝貝電話をハンズフリーに切り替えた。通話器からの音が大きくなる。背後からバリバリという音が聞こえてくるのは彼女たちの末妹のマドンナが菓子を貪り食べている音だろう。
「どうしたんですか?」
『タレコミがあったんだわさ。たった今、棋盤山の桃精と柳鬼から入った情報で、あの山の何も無い空間で時々四角い『窓』が開いて人が出入りするのを見たって言うのよ』
 棋盤山は崑崙山跡地の東外れにある山で、桃精と柳鬼は棋盤山に棲む桃と柳の木の精である。話を聞いた楊戩は思わず立ち上がり電話の向こうのクイーンに問うた。
「それは本当かい!?」
『ええ。しかも同じような場所で複数回。最近までは妙な奴がいるもんだなって思ってただけだったそうだけど、太公望殿捜索の情報を聞いてもしかしたら彼じゃないかって情報提供があったというわけ』
「間違いなく彼です!」
 言うが早いが楊戩は四不象たちへの伝令の手配をし始めた。自分は蓬莱島から離れられない以上、一刻も早く人を派遣して確認させなければならない。

「あんちくしょーっ! どこに居やがるんだ太公望のヤローは!」
「うるさい、黙って探せ」
 碁盤山の上空で、たまりかねたかのように叫ぶ雷震子に、哪吒が冷たく言い放つ。
「これが黙ってられっかい! ただでさえパトロールで忙しいのにあいつのせいで仕事が増えやがったんだからな!」
 武吉や四不象に加えて、哪吒と雷震子と黄天祥も太公望捜索隊に加えられていた。
「それにしても楊戩のやつも必死だよな。最近じゃ金鰲の生き残りの妖怪達にも探させてるみたいだしよ。ま、あいつの心情を考えたら、そりゃ当然必死にもなるだろうけどよ」
 雷震子も楊戩妊娠の事情は知っており、それゆえに身重のパートナーを放り出して行方不明になっている太公望に尚のこと腹を立てていた。
「あいつ、見つけ出したらすぐふん捕まえてとっちめてやるからな! 首洗って待ってろ! 太公望!」
「うーん、このへんには居ないみたいだねー」
 哪吒の背の上から四方を見回しながら天祥が言う。哪吒や雷震子のように空を飛ぶことは出来ないものの、天然道士の視力の良さから役に立つだろうということで太公望捜索隊に加えられていたのだ。
「そうか。ならばここに居ても仕方がない。次に行くぞ」
「あ、おい、お前ら……くそ!」
 苛立ちまぎれに手近にあった大岩に向かって雷を落とすと、その岩はバラバラになりガラガラと崩れ落ちた。それを見て少しは気がまぎれたのか、雷震子は二人を追って飛び去って行った。
「ふう、やれやれ」
 彼らが立ち去ってからしばらく後、崖の上の何もない空間に四角い窓のような穴が開き、そこから黒衣の少年が身を現した。彼こそが今、蓬莱島が一丸となって探し回っている太公望その人、今の名は伏羲、であった。
「くっくっく……いかに天然道士の視力を以てしても肉眼で亜空間に隠れたわしを見つけられると思っているのであれば甘い甘い。それにしても、まったく近頃わしを探し回る追手が増えて困る。おちおち昼寝もできんではないか」
 ぼやきながら窓枠を乗り越えて通常空間に降り立つと、そこにあった松の根本に腰を下ろし、ゴロリと横になった。
「……もうわしの力を必要とするような事などあるまいに」
「それだけ貴方を必要としている人が居るということですよ」
 背後からの声に伏羲はつぶっていた目を開けた。その声の主は振り向かずとも分かった。
「そうは言ってもな申公豹、わしの役割は終わったのだ。もはや仙界も人の世もわしの力は必要としておらん。これ以上は始祖たるわしの力なぞ無用の長物、それどころか他の者が自立してやっていくことの妨げにしかならぬ。さっさと隠居して後進に道を譲った方が良いのだ」
 事実、伏羲は全てが終わった後、今までの仲間達の誰とも会わずにそのまま何処かに消え去るつもりであった。それが何処かは彼自身にも分からない。ただ、仙道の世界にも人間の世界にも一切の関わりを持たずにいるつもりであった。女媧を封じるという最初の人として残り続けた最後の目的を果たしたとなっては、彼にはもはや成すべきこともこの世界に留まり続ける理由も存在していなかった。さりとて妲己のようにこの星と一体となろうにも、始祖としての肉体を失ったその身には既にその力は残されていなかった。
「思えば、あの時が最後にして絶好の機会だったのかもしれんのう……ま、生きのこってしまった以上、ただこうして在るしかないが」
 女媧の最期のあがきにより道連れに心中させられそうになった時、もはや何もやり残した事のない伏羲はその運命を受け入れ、共に消滅するつもりであった。しかし星の意思は、正確にはそれと一体となった妲己はそれを良しとせず、一度は消滅して崩壊しかけた彼の肉体を再構築して現世につなぎ留めたのだった。それが故に結果として伏羲のままこの世に残り続けるしかなかったのだった。
「確かに始祖としてのあなたの力はもはや必要はないでしょうが、あなた個人に対しては一概にそうとも言えないんじゃないですかね? ま、貴方がどうしようと貴方の勝手ですが」
「どういうことだ?」
「さあて。ご想像にお任せしますよ。ですが、あなたはまだ消えるべきではない。私はそう思いますよ」
 フフフと意味ありげに笑うと、申公豹は黒点虎に跨ったままフワリと浮き上がった。
「ご心配なく。あなたの居場所を他の者にバラしたりはしませんから。それではまた」
 言うだけ言うと申公豹は去っていった。
「あいつ何が言いたいんか……おっと、次は四不象と武吉が接近しておる。ああやれやれ全く、逃亡生活も楽でないのう」

「うーん。ここにも居ないか……わりと新しい臭いは残っているような感じがするんだけどねえ」
 四不象の背の上から四方を見渡しながら武吉は呟いた。ここ棋盤山は封神計画の名を受けた太公望が四不象と共に最初に降り立った場所であり、彼らも何度となく探しに来ている場所だった。
「武吉くんの嗅覚と視力を持ってしても見つけられないなんて……ほんとどこに隠れているッスかあの人は……!」
「お師匠様、ボクらが必死になって探し回ってるから、おちょくって尚のこと巧妙に逃げ回ってるんじゃ……」
「なんつーガキみたいな……ああっ、どうすればいいッスか! このままじゃ楊戩さんがシングルマザーになっちゃうッスよー!」

 ビシッ

 背後から何かがひび割れるような音が響いた。二人が振り向くと、先ほどまで何もなかった青い空に窓枠のようなものが浮かんでおり、そこに真っ黒な亀裂が生じていた。呆気にとられた二人が動くこともできず凝視しているうち、その亀裂がボロボロと崩れて崩れ落ち、何もない空間に大きな割れ目を生み出した。そしてその空間の割れ目の向こうにその人物は居た。
「ご主人……?」
「お、お師匠様……!」
 虚空にぽっかりと口を開けた空間に浮かんでいたのは彼らが正に探していた人物、太公望こと伏羲であった。彼もまた四不象と武吉同様、その顔に隠しきれない動揺を浮かべたまま固まっている。
「す、スープーよ……今の話はどういうことだ」
 亜空間の中に隠れながら必死で探し回る二人を覗き見て楽しんでいたようだが、どうやら動揺のあまり、隠れていた空間の壁を崩壊させてしまったらしい。
「どこ行ってたっスかこのバカご主人ー!」
「散々探し回ったんですよお師匠様!」
 我に返った四不象と武吉が詰め寄ってくる。もはや逃げられないと観念した伏羲は慌てて二人を押しとどめた。
「ま、待て、今そちらに出るから」
 割れた窓枠を乗り越えて通常空間内に出てくると、指先に力を集中させて背後の割れた空間を元通りにつなぎ合わせた。そして再び地面に降りると改めて二人に向き直る。
「あー……色々すまん、二人とも……?」
 今まで色々と放置して逃げ回ったことでしこたま怒られることを予感して振り向くと、四不象と武吉の目には涙が浮かんで居た。
「ご主人、あの時に死んじゃったとばっかり思ってたッス……」
「でも生きてることが分かって……あれからずっと、ずっと探してたんですよお……本当に……本当に……」
「生きてて良かったッスー!」「生きてて良かったー!」
 言うが早いが二人は目にも止まらぬ早さで伏羲にひしと抱きつき、わんわん泣き始めた。二人に挟まれる形になった伏羲はもみくちゃになる。
「く……苦しい、ちょっと離せうぐぐぐぐ」
「離しませんよ! もう絶対に!」
「そうッス! 楊戩さんが待ってるッスから早く帰りましょう!」
「お、おお、そうだ、さっき言ってた事、あれは一体どういうことだ?」
 伏羲が疑問を口にすると、二人はようやく顔を上げて涙と鼻水を拭い、答えた。
「どういうことも何も、楊戩さんがご主人のお子さんを妊娠してるんスよ」
「……マジで!?」
「本当です。実際、楊戩さんのお腹も今じゃだいぶ大きくなってきてるんです! ただでさえ教主としてのお仕事も大変なのに……」
 正直、身に覚えはあることはあるが、自分も楊戩もれっきとした男である。性行為を行っても子が出来る筈もない。大体、彼は自分を抱く方で自分は抱かれる方だったのだから抱く方が妊娠するというのは更に意味が分からない。
「ううむ、俄には信じがたいが、一刻も早く帰らねばならぬようだのう」
「ボクの背中のに乗ってくださいご主人! 蓬莱島まで全速前進でお送りするッス!」

「太公望! てめえ今までどこほっつき歩いてやがった!」
 横を飛んでいる雷震子が四不象の背の上の伏羲に怒鳴りつける。伏羲は甘んじてそれを受け入れ、謝った。
「すまぬ。本っ当にすまぬ」
「謝るのは俺らじゃなくて楊戩だろうが! 身重にしといてほったらかしやがって!」
「そういう人聞きの悪いことを大声で言わんでくれるか……」
「事実だろう」
「う……」
 哪吒の身も蓋も無い一言に、伏羲は思わず黙り込む。哪吒の背の上から天祥がフォローするように言った。
「でも、太公望が見つかって本当に良かったよ」
「ああ、皆、心配をかけた」
「フン」
 それにしても、楊戩が妊娠するとはどういうことなのだろうか。その謎の手がかりを探るべく、伏羲は目を閉じて瞑想を始めた。心の中で何もない空間に『窓』のようなものがあるのを思い浮かべ、その向こうに一つの『部屋』があるのをイメージする。心の中でただの太公望に戻った伏羲は窓枠を乗り越え、『部屋』の中に足を踏み入れた。
「ぎゃっはっはっはっはっ、あはははははははは、あーっはっはっはっはっ」
 『部屋』に足を踏み入れた太公望を迎えたのは、王天君の大爆笑だった。融合してから向こう、彼はこの心の中の部屋に居場所を構えているのだった。その王天君は今、部屋の奥に置かれた長椅子の上にひっくり返って足をばたつかせて腹を抱え、声を限りに笑っていた。
「あはははははは、はははははは、あはっ、あはっ、あはははは、あははははは、ヒィ、ヒィ、ヒィ、あはははは、あはははははは……」
「王天君よ、お主笑いすぎだ」
 笑いすぎて実体もないくせに過呼吸に陥りかけている王天君に呆れた太公望が呟くと、王天君は肩で息をしながら返した。
「これが……ヒック……これが笑わずに居られるかってんだよ……ヒュー……だって、だってよ、あの澄ました顔の王子様をよ、よりにもよってお前が、ヒー、孕ませたんだぜ? あんなに清廉潔白でいい子ちゃん面したお前が、だぜ……その子どもっぽい面でなかなか隅におけないことするじゃねえか……ヒヒッ……」
「言うな。わしとて正直信じられんのだ。大体、身に覚えはあるが、その、わしは……」
 太公望が額を押さえて口ごもり気味に言うと、王天君は長椅子の背に足を投げ出してひっくり返ったまま、まだ笑いの涙の残った目でニヤニヤと笑みを浮かべながら答えた。
「ああ、お前が突っ込まれて中で出される方だったんだろ?」
「確かにそうだがせめてもう少し歯に衣着せんか」
「まあまあ事実じゃねーか。妖怪仙人ってのはな、互いの精気と精気が腹の中で混ざり合う事で妊娠するやつが多いんだ。条件さえ整ってりゃ、妊娠に適した方が妊娠する。突っ込む方か突っ込まれる方かなんて関係ねーよ。男と女の組み合わせで男の方が妊娠することだってあるし、そもそも男と女である必要すらないんだ、いや、そもそも俺たちに性別なんてもんはあってないようなもんだけどな」
「なんとも便利というか摩訶不思議というか……」
「ま、流石に妖怪と人間で妊娠するとはまさか夢にも思わなかったんだろうな、あの王子サマも。いや、もしかしたら、どうやって子が出来るのか知らなかった可能性もあるかもしれねえが」
 くっくっと声を漏らす王天君だったが、ふと思い出したかのような声を上げた。
「あー、そういや今のお前の身体も元はといえば俺の身体がベースになってたな。混ざり合うときにだいぶ人間寄りの見た目になっちまったけど、基礎の部分は妖怪ベースのままの筈だぜ?」
「お主何が言いたい」
 王天君が何を企んでいるのか薄々気付いていたことはいたが、一応聞いてみる。王天君はニヤリと笑って太公望の腹を指さした。
「つまり今のお前の身体なら妊娠出来るってことだよ。二人目はお前が産んでやったらどうだ? あの王子サマに子種の『精』をもらってよ」
「何でわしまで妊娠せねばならんのだっ!」
「いやー、ボテ腹になったお前の姿もなかなか面白そうだと思ってよ」
「お主が面白くてもわしが面白くないっ! 大体元はといえばお主の身体であろう! いいのかそんなんで!」
「別に。この身体はもうお前にくれてやったんだ。どうなろうと俺には関係ないからな。俺は構わねぇぜ?」
「うぬぬ……自分の事なのに他人事のように好き勝手に言いおって……」
『蓬莱島に着いたっスよー、ご主人』
 意識の外から聞こえた四不象の言葉に太公望は目を覚まし、精神世界から現実世界に引き戻された。どうやら精神世界の王天君と会話している間にワープゾーンを越えたらしい。
「あっ、スープーちゃーん☆ 太公望、見つかりっ!?」
 近くに浮いている島の一つから甲高い声と共に一人の童女が飛来してきた。胡喜媚だ。島影にはもう一人座っている人物が見えた。王貴人だ。彼女は四不象の背の上にいる伏羲をちらりと一瞥すると、忌々しそうに「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「喜媚さん! 王貴人さん! ご主人見つかったッスよー」
「なんだ、生きていたの。あのまま消滅していれば良かったのに」
 島影に座ったまま、忌々しそうに呟いた王貴人の声は誰にも聞きとがめられる事無く空に消えた。喜媚は太公望を見上げながら話しかける。
「ねーねー太公望☆ 喜媚とスープーちゃんの結婚式、来てくれりっ?」
「む? 式?」
「スープーちゃん、仕事が忙しいからってなかなか日取り決めてくれないっ 太公望と楊戩もお式あげりっ?」
「いや、あの、それはどうかまだ分からんでのう……」
「だったら喜媚たちと一緒にダブル挙式にしっ☆ 二人ともきっとタキシード似合いっ☆ ねっ、スープーちゃん☆」
「喜媚さん、ボクたち急ぎの用事があるから、その話はまた後にしてほしいッス」
「う、うむ、また今度な……」
「わかりっ☆ 喜媚、待ってりっ☆」
 喜媚たちに見送られた後、しばらく飛んで一行はようやく目的地に到着した以前の玉虚洞を模したと思われる洞府だ。誰もいない麒麟崖をすっ飛ばして上の方にある洞府の入り口から中に入る。
「あーっ、太公望!」
 洞府内に入ると、張奎が彼らの姿を認めて走り寄ってきた。
「全くどこに行ってたんだ! あれから残務処理が色々と大変だったんだからな! 人に全部押しつけて!」
「そう怒るな。わし一人おらずともどうにかなったであろう」
「そうだけど……!」
「まあ、何はともあれ、生きていたようで何よりだ」
 騒ぎを聞きつけてやってきていた燃燈道人が言った。
「うむ、お主らには心配をかけたのう」
「それより、楊戩のところには行ったのか? まだなら早く行ってやるといい」
「そうそう! 楊戩さんが待っていらっしゃるッスから、さ、早くいってください」
 四不象に背中を押され、伏羲は他の者達と一旦別れると洞府の奥まで行った。短い廊下の先に大きな扉があり、その扉をくぐると、それなりに広い執務室のような部屋があり、その奥にある大きな机の向こうにいたのは、彼の想い人であり、今正に伏羲の子を身籠もっているという楊戩であった。
「楊戩……」
「……」
 扉を閉めた伏羲が恐る恐る声をかけると、楊戩は顔を上げ、何も言わずに伏羲をじっと見てきた。その目から表情は伺えなかった。しばらくの沈黙の後、伏羲は謝罪の言葉を口にした。
「その、知らなかったこととはいえ、こんなに長い間放っておいてすまなかった」
「……」
 楊戩は相も変わらず沈黙したまま、伏羲の顔を見つめ続けている。そのまま更にしばしの気まずい沈黙が続いた。沈黙に耐えきれなくなった伏羲が、再び口を開く。
「お主のお腹の子はわしが責任を取るから、その……」
「もちろん、それは大変気になっていたことですし、認知していただけるなら大変有り難いのですが、僕が問題にしているのはそれだけじゃありません」
 楊戩が初めて口を開いた。彼は徐には立ち上がると、伏羲を真正面から見据え、彼の元に歩み寄りながら言った。
「僕のお腹の子が居なかったら帰って来ないつもりだったんですか? 女禍を倒したら僕たちは用済みではいさようならですか? 太公望師叔、貴方はそんな薄情な方だったんですか?」
 堰を切ったように訴える楊戩にひと息に詰められ、伏羲はたじたじとなりながら言い訳した。
「いや、お主らを捨てるような形になったことはすまないと思っている。ただ、歴史の道標から解き放たれた今、もはや始祖たるわしの力は必要無く、それどころか邪魔にすら……」
「関係ありません」
 扉の前で立ち尽くす伏羲の前まで歩み寄った楊戩が遮るように断言した。伏羲は一瞬びくりと身を震わせる。
「始祖としてのあなたが必要なくなっても、個人としてのあなたが必要無くなるわけないでしょう? 始祖としてのあなたの処遇についてはまた別の問題として考えればいい」
「楊戩……」
「貴方、前に言いましたよね? 伏羲として僕たちの前に初めて姿を現した時に、『今は太公望つーことにしといてくれ』って」
 言いながら楊戩は伏羲の元にゆっくりと歩み寄る。その顔は今にも泣き出しそうだった。
「僕たちにとっては、今でも貴方は『太公望』ですよ……」
 楊戩は、そのまま伏羲の身体を抱きしめ、その肩口に顔を埋めた。
「お帰りなさい、太公望師叔……」
 伏羲の肩口に顔を埋めたまま、楊戩は肩を震わせていた。伏羲はしばしの間何も言わなかったが、やがて楊戩の肩をそっと抱き返すと目を閉じて小さな声で答えた。
「ただ今、帰ったぞ、楊戩……」
 しばらくの間、二人は執務室の扉の前で抱き合ったままでいた。どのくらいの時間が経った頃か、楊戩がようやく身を離した。
「ここに、わしらの子がおるのか……」
 そう言って、伏羲は楊戩の腹にそっと触れた。楊戩は袖で目尻を拭うと、上から包み込むように伏羲の手を包み込む。
「ええ。あと数ヶ月もすれば生まれてきますよ」
「おぬしとわしの子か。どんな子が生まれるんかのう」
「どんな姿になるかははっきりとは分かりませんが、雲中子に照胎鏡で診て貰ったところでは、かなり人の胎児に近い姿になっているということでした。出産時には、原形か少なくとも半妖体には戻って産んだ方が安全ということです」
「そうか。どのような姿にせよ、お主が無事に産んでくれるならそれ以上のことはない。生まれる日が楽しみだ」
「ええ、僕も早く会いたいです……」
 そのまま更にしばらくの間沈黙が流れた。ややあってその沈黙を破ったのは伏羲であった。
「ところで、扉の向こうにいる者達は、いつまで待たせておけば良いものかのう?」
「え……?」
 伏羲が背後の扉に手を伸ばしてサッと内側に開くと、扉の向こうからどどっと複数の者が倒れ込んで来た。床に折り重なって倒れているのは武吉と四不象、雷震子に天祥、鄧嬋玉と土行孫であった。少し離れたところには哪吒と燃燈と張奎が立っている。
「えへへ……」
 折り重なって床に倒れながら決まり悪そうに笑う彼らに楊戩が狼狽した顔で問う。
「え、あの、皆、いつからそこに……」
「俺は立ち聞きなんてやめろって言ったんだ。ただこの女が強引にだな……」
「何よお、ハニーだってしっかり聞き耳立ててたじゃない」
「あの、それより早くどいてくださいッス……重い……」
 更に彼らの背後には太乙真人と雲中子、胡喜媚に王貴人、雲霄三姉妹に竜吉公主の姿もあった。
「私たちは太公望が帰ってきたと聞いて今さっきここに来たばかりだから。会話は特に聞いてないから」
「私は楊戩の定期検診に来ただけだ」
「何で私が太公望と楊戩の痴話喧嘩なんて立ち聞きしなきゃいけないのよ……」
「まあまあ、仲良きことは美しきことなりっ☆」
「太公望さま、よくお戻りになられて……」
「よく戻った、太公望」
 皆のそれぞれの言葉に、伏羲はやがてふっと笑みを浮かべて答えた。
「ただ今、皆」

《了》

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