攻殻機動隊と鬼哭街の混ざった世界に封神キャラがパラレル設定で出てくる上海マフィアパロな話です。今回は雷震子がチャイニーズマフィアな雲中子の元で凶手になった経緯の過去話です。暴力的な描写と殺人描写が含まれるためR18となっております。最後ちょっとだけ雲雷です。
外家拳法とか内家拳法については武侠小説によく出てくる流派ですが、その外家拳法にサイバネティクス技術を追加したのはニトロプラスの「鬼哭街」の設定です。んで雲中子さんが雷震子に施した処理なんかはオリジナル設定です。
「ちっくっしょーっ! 殺せ! さっさと殺せってんだオラ!」
その少年、雷震子はがたつくパイプ椅子に縛り付けられて喚き散らしていた。年の頃は十代前半もいいところ、着ているものといえば煮染めたように汚れたシャツと、これまた何週間も洗っていないような身体に合っていないズボンのみである。
そのやせこけた年端もいかぬ少年を、薄汚れた半地下の事務所とも倉庫ともつかぬ室内の片隅で、明らかにかたぎの人間ではない数人の黒スーツの男達と白い長袍の男が取り囲むように立っていた。黒服の男達の同じ顔、同じ体格、同じ服装、同じ姿勢で統一されたその姿は彼らが人工的に作り出されたバイオロイドであることを示している。
「殺す? それはまた何で?」
白服の男、雲中子が質問した。不穏な場面に似合わずその口調は穏やかで、物腰からも知性や教養といったものが滲み出ている。こんな胡乱な場所にいるよりも、どこぞの大学の研究室にでも居て書物や実験器具と向き合っていた方が似つかわしい風体であるが、そのことが却って油断のならない空気を醸し出している。そんな彼に対し、雷震子は縛り付けられた椅子から身を乗り出すようにして噛み付くように返答した。
「あ? オレぁテメーを殺そうとしてしくじったんだ。今更生きて帰れるとは思ってねーし、帰るところだってねぇよ。だからさっさと殺せってんだよ」
つまるところ、この少年は敵対組織から雲中子に差し向けられた刺客だった。最低限の使い方のみ教えられた拳銃一つで放り込まれた鉄砲玉。拳銃弾で何人かの取り巻きを斃したものの、任務遂行など出来る筈もなく最終的にはあっさりと捕縛され、終南幇の事務所の一つに押し込められてから今に至るというわけだった。
「君、命が惜しくはないのかい」
「命だぁ!? ハッ! どーせ奴らに拾われなけりゃ、あのまま路上で凍え死んでた命だ。今更惜しくなんかねーよ」
そう血を吐くように啖呵を切ると目の前の男を睨みつける。ぼさぼさの黒髪の下で大きく見開かれた目は手負いの獣か飢えた猛禽類を思わせた。
「分かったらさっさと殺せよオラ! それともここにはこんなガキ一匹殺せねえ腰抜けしか居ねえのか!? アア!?」
そう吠え付くようにひたすら喚き散らすが、目の前の学者然とした男は相変わらずその飄々とした態度を崩そうとしない。その様子に雷震子がやや気勢を削がれてきた頃、雲中子は口を開いた。
「うーん、そんなことしてもあんまり得はないんだよね」
「? どういうことだよ」
首を傾げる雷震子に対し、雲中子は講義でもするように説明を始めた。
「キミをただ殺しても、なんだか勿体ないという話。殺してから臓器だけ取り出して売りさばいてもいいんだけど、キミの場合は健康状態もあまり良くないようだし、商品として流通させてもあまり良い値段がつくとは思えない。そうかと言ってそのまま長江のサメの餌にするのも芸がない」
穏やかな口調とは裏腹に不穏な言葉を口にしながら、そのまま室内を歩き回る。そこに大きな黒板と実験用器具の乗った卓でもあればさぞかし様になったであろうが、生憎とそんなものはそこにはない。
「それより折角生きたまま捕まえたんだから、もっとこう有効活用した方がいいじゃない。例えば」
そう言いながらちらと視線を送る。その視線に実験用のマウスでも見るようなものを感じ、雷震子の背筋に怖気が走った。
「うちで開発して流通させてる薬の実験台に使うとか。生体実験用のサンプルはどれだけ居てもいいし。なにせ薬の作用ですぐボロボロになって数ヶ月も保たないからねぇ」
「……」
「それか手足切り落としてそれ専門の娼館に放り込むか」
そう言いながら椅子の横に立ち、雷震子の首の後ろにそっと指を這わせる。触れられた雷震子の方がぴくり、と震えた。
「自力での食事や排泄の処理は出来なくなる分手間はかかるけど、その手の愛好家の客の割に供給はそう多くないからそれで釣り合いは取れるだろうし」
首から肩口に指先を移動させ、関節の位置を確認するように指を這わせながら雲中子は言った。提示された己の末路の、予想以上の凄惨さに椅子に縛り付けられた雷震子の膝頭がカタカタと震え出す。その膝の少し上、腿のあたりをそっと撫でながら雲中子は雷震子の耳元で囁く。
「あ、切った後の処理さえちゃんとしておけば何年かは保つからそこは安心していいよ。まあ、切断のショックで精神の方が先に壊れるだろうけど」
「……嫌だ」
「ん?」
「そんなことされるぐらいなら今すぐ死んだ方がマシだ……」
自分の爪先を見つめながら雷震子が震える声を発した。その顔は先ほどとは打って変わって青ざめている。
「……あのとき、オレが襲ったときに何で撃ち殺さなかったんだよ……そしたらそれで終われてたのに……頼むから今ここで殺してくれよ……」
震えが立て付けの悪い椅子にも伝わってカタカタと音を立て始めた。先ほどまでのやけくその威勢はもはや完全になく、その目に浮かぶのは完全なる恐怖それ一色であった。だが震える声で哀願する雷震子に対し、雲中子は叱られて萎縮する生徒を諭す声で続ける。
「まあそう結論を急ぐんじゃない。今言ったのはあくまで最悪の場合どうなるかであって、君次第で別な道もありうる」
何が言いたいのか訝しみつつ、雷震子は無言で目の前の男を見上げた。雲中子は傍らのテーブルをちらと見た。そこにはホールドオープンした59式拳銃がひとつ置かれている。
「三下タイプの量産型とはいえ、うちのバイオロイドを一度に三人、戦闘不能状態にしたんだ。この粗悪なマカロフのコピー品一つで。君けっこう伸び代があるよ。鉄砲玉にしておくのは惜しい。しかも電脳化も義体化も一切なしなんだからなおのこと好都合だ」
何が好都合なのか雷震子には分からなかった。だがそんなことにはお構いなしに雲中子は続ける。
「そこでキミ、うちの幇に入らない? 私の見立てでは訓練すれば結構いい凶手になれると思うよ。どうかな?」
「オレが……終南幇の凶手に……?」
突然の勧誘に雷震子は面食らった。今度は恐怖ではなく当惑で目を白黒させている。そんな雷震子に雲中子は優しく教え諭すように言った。
「なに、そう難しいことじゃあない。ちょっとした肉体の強化と訓練を受けて貰うだけだよ。あとはキミの頑張り次第。娼館で人豚になるか、薬の実験台のモルモットになるか、それとも凶手になるか、さてどうする?」
雷震子が選ぶまでもなく道は一つしかなかった。
「さて、これから君には内家拳法の修行を受けてもらうわけだけど」
黒塗りのSV(スラスト・ヴィークル:空を飛ぶ車)に乗り込みながら、雲中子は雷震子に対して説明を始めた。
「武術の体系は大別して二つに分けられる。一つは型や技を駆使し、筋肉や皮膚といった身体の外部を鍛える外家拳法、もう一つは体内の気が生み出す”内勁”の力を極限まで引き出すことで超人的な力を得る内家拳法の二つだ」
ベンツ製のSVは音もなく動き出した。これから彼の家に連れて行かれるらしい。
「本来、内功を使えるようになるには長年の修行を要するし、それでもその深奥に到達できるのはごくごく限られたものしかいない。それに加えて現在ではサイバネティクス技術の進化により、身体能力の拡張が可能になったことで外家が大半を占めている」
隣に座る雷震子は若干居心地の悪そうな様子で耳を傾けている。前の座席にはほぼ同じ顔をした黒服のバイオロイドが二人、運転席と助手席にそれぞれ座っているが、完全自動運転モードであるためか運転席に座っている方はハンドルを握っていない。
「内家拳法は体内に存在する経絡や経脈を通じて体内の気を操る関係上、義体化による強化は使えない。身体に無機物を埋め込むことで体内にある経絡を潰してしまうからね。電脳化も同様の理由で不可能。それも今のご時世で内家が衰退している要因の一つだ」
そう言いながら雲中子は己の襟足にかかった髪を僅かに持ち上げ、首筋を見せた。そこには今時のそれなりの生活をしている人間であれば大概の者に設えられているQRSプラグ接続用の電脳ポートがインプラントされておらず、完全に生身のままであった。
「だが私もこのままおめおめと手をこまねいて衰退を見守っている気はない。だから別の方法での強化方法を研究してきた。同時に外家のサイボーグ共に対抗する方法もね」
饒舌に講義を進める雲中子の言葉を、雷震子はただ黙って聞くことしか出来なかった。彼の頭では話の内容はいまひとつ、というかほとんど理解出来なかったが、どうやら相手はあまり頓着していないらしい。
「そこで私はバイオ系の分野に進むことにしたんだ。つまり生物学的アプローチでの人体強化や有機的アンドロイドの開発とか、そういう分野だね。先の第三次世界大戦で機械部品をベースにした義体やアンドロイドの研究開発は飛躍的な進歩を遂げたものの、それに対して生体ベースのバイオロイドなどはまだまだ後塵を拝するところが多い。だが、そちらの方が内家拳との相性は良いと考えたんだ」
大戦が終わった今となっても商用ベースや一般に使われるのは機械部品ベースの義体やアンドロイドがまだまだ多い。人工的に製造された生命体であるバイオロイドの生産には倫理的な観点から厳しい規制が多く、そのため研究も進んでいなかったためである。
「その方法というのが内科的な方法で経絡を強化することで人工的に内功使いを作り出す、ということだ。一言で言えば」
いつしか車は上海市郊外にある高級住宅街にさしかかっていた。そのうちの一つの邸宅の門をSVは通過して敷地内に入っていく。
広い庭には杏の木がそこかしこに植えられており、この都市を覆い尽くす汚染物質の雨にもかかわらず緑の葉を茂らせ、未だ青い実をつけている。
「長年の研究の成果もあってその方法はほぼほぼ確立しているんだけど、いざ実用化という段階で運用面での問題が出てきたんだよね」
SVは屋敷の玄関前に停車した。前の席に座っていたバイオロイドが降車して後部座席のドアを開ける。二人は車外に降りると玄関を上がる。旧フランス租界時代の建物なのか外見は古そうな洋館だったが、中の調度は伝統的な宮殿風でまとめられているようで、格子の屏風や大きな青磁の壺が玄関や廊下の隅にさりげなく置かれている。
物珍しげにキョロキョロと辺りを見回す雷震子を伴って薄暗い廊下を歩きながら、雲中子は話を続けた。
「幇のフロント企業のバイオキシン・メディテックで独自に開発したバイオロイドを生産していたりもするから、最初はうちの社で製造しているバイオロイドにこの強化処理を施せばいいと考えていた」
バイオロイドは人体を忠実に模した有機部品で構成されているから、理論上は生命エネルギーである内功や気の力を運用させるように設計することは出来るからね。そう雲中子は言った。
「しかしこの方法は大量生産の兵隊に処理を施すには少々効率が悪い。その上彼らは三年ほどしか寿命が持たないからコストパフォーマンスも悪くなる。そうかと言って寿命を延ばせばまた別の問題が発生する。ならば少数の人間に使用することで強い兵隊を作ろうと考えていたんだけど」
話しているうちに屋敷の奥にあるエレベーターの前まで来ていた。後付けで設置されたものだろうか、どちらかといえば古風な作りの邸宅には似つかわしくない鉄の扉がなんとも言えない存在感を放っている。扉の横にある認証用のパネルに雲中子が指を当て、操作をすると扉は音も無く開いた。二人が乗り込んでもバイオロイド達はエレベーターの前で直立している。雲中子は地下へのボタンを押した。直立不動のバイオロイド二人に見送られながらエレベーターの扉が閉まる。
「そうなると今度は別の問題が発生した。人間となるとこの方法が使える者がかなり限られてくるんだよね。なにせ先も言ったように義体化や電脳化をしていては内勁は使えない。けど最近では義体化はともかくとして電脳化していない人間の方が探すのが難しいし、うちの幇の若い衆もほぼ全員電脳化済みときている」
そう言いながら雲中子はぽりぽりと頭をかいた。話している間にエレベーターはすぐに停止し、扉が再び開く。
エレベーターから降りた雲中子が壁のスイッチを入れると、その空間の全貌が明らかになった。そこは無機質な金属の壁に覆われたラボだった。
「先ほども言ったように私は電脳化も義体化もしていないから一度自分の身体で試してはみたんだけど、いまひとつ効果が出せなかったんだよね。功夫において既にある程度の熟練のある人間にはどうにも伸びしろがないらしくて、内功をある程度極めた部下に飲ませても同じだった」
雷震子はエレベーターの扉の前に立ったまま所在なげに周囲を見渡した。雲中子は中央の実験卓に設えられた引き出しの下の段から何かを探している。
「で、そこに丁度良く来たのが君ってわけ。電脳化も義体化も一切無し、まだ幼いけど鍛えれば伸びしろはある。丁度いい被験者が手に入ったよね」
「やっぱり実験台にされんのかよオレ……」
「うん。まあでも、身体への有害性は今の段階では見つかってないから心配しないで」
心配するなと言われてもあまり安心する気にはなれなかった。そうこうしているうちに雲中子が引き出しの中から何かを引っ張り出してきた。
「うーん、一番小さいのでもサイズこれしかないか。まあしょうがない。ちゃんとした服は後で用意させるから、今はとりあえずこれ着といて」
雲中子が手に持っていたのは簡素な検査着のような、素っ気ない薄緑がかった白色の上衣だった。その服を雷震子に渡しながら雲中子は指示する。
「そこにシャワー室があるからシャワー浴びて着替えてきて」
雲中子が指さした先には上半分に磨りガラスのはめ込まれた扉があった。雷震子は検査着を受け取ると、シャワー室に向かった。病院のシャワー室のような狭い空間の中、何ヶ月かぶりに身体を洗い清めながら、雷震子は腹を括った。どうせ今更逃げ出すことは出来ないし、内臓を取り出されたりダルマにされて売り飛ばされるよりは恐らくまだマシだ。
雷震子が身体を拭いて検査着をまとい脱衣所から出ると、雲中子は上着を脱いで白衣を羽織っていた。隣には先ほどのバイオロイドとは違う黒服の男二人が控えていた。どうやらこちらは人間のようだ。一人は手に朱塗りの盆を捧げ持っており、その上には小さな杯がひとつ置かれている。
「本当はもっと色々段取りがあるんだけど、とりあえず急だったから超略式で行くよ。立会人はこの桃精と柳鬼が行う」
雲中子は手に薬の瓶と小さな計量カップのようなものを持っている。近くに寄った雷震子は見上げながら聞いた。
「なんだよ、それ」
「これがさっき言ってた体内の経絡を活性化させるための薬剤。内家使いの間で代々伝わる秘笈に残された伝説の霊薬、その情報を元に開発した薬だ。資料はかなり散逸してしまっていたから復元と解読にはかなりの労力と時間を要したよ」
そう言いながら雲中子は瓶の蓋を開けて計量カップに中の液体を少量注ぎ込む。透明な液体がガラスの容器の中に満ちた。
「丁度いいから親子盃の交盃、つまり君が幇に入るための儀式の酒の代わりにも使う。アルコールだと飲み合わせで薬に影響出る可能性あるからね」
雲中子は盆を捧げ持つ黒服から杯を受け取るとそこに計量カップの中身を移した。その盃を雷震子に差し出す。
「これを捧げ持って『道に背かず、幇に逆らわない』って誓って」
「えーと……『道に背かず、幇に逆らわない』……これでいいのか?」
「うん。後はそれ一気に飲み干して」
雷震子は手の中の盃をじっと見つめた。得体の知れない薬臭さが鼻を刺激する。これを口にすることで様々なことが変わってしまうだろう。幇主からの盃を受け取って飲み干すことは幇の一員となり、絶対的な服従を誓う関係となることを意味する。加えてこの得体の知れない薬も身体的に一体どんな変化が待ち受けているのか想像もつかない。覚悟を決めると雷震子は盃を口に付け、中身を一気に飲み干した。
「不味ぃ……」
飲み干した薬は覚悟していた以上に不味かった。スラムの水たまりに溜まった汚染物質だらけの雨水だってもう少しマシな味がしただろう。思わず手を滑らせて盃を床に落としてしまう。薄張りの空の器は硬い床にぶつかると、パリンと甲高い音を立てて割れてしまった。
「よし。これでキミは晴れて終南幇の一員だ。二人はもう下がっていいよ」
予め用意していたちりとりと小さな箒で盃の破片を集めると、スーツの男二人は無言のまま一例してエレベーターから上の階に上がっていってしまった。後に雲中子と二人残された雷震子は無言のまま喉や腹にそっと手を当ててみる。薬の不味さはまだ喉に残ってはいるものの、体調にこれといった変化はないように感じる。
「なんか何も変わらねぇんだけど」
「だろうね。即座に効果が出てくるような薬でもないし。効果が出るまで少なくとも二週間は飲み続けないといけない筈だからね」
「二週間もこれ飲むのかよ……」
流石にげんなりした顔でがっくりと肩を落とす。そんな雷震子に雲中子は告げた。
「そ。毎日一回ずつ。それに並行して明日から訓練を始める。今日はもう遅いし部屋を用意させるからしっかり休んでおくように」
その次の日から雷震子の修行の日々が始まった。基礎体力や筋力を付けるための筋トレや走り込みから始まり、素手や棍棒や模造刀を用いた格闘術の訓練。効率よく確実に相手の動きを止めたり殺害するための人体の構造の勉強など、朝から晩まで修行漬けの日々が続いた。
実戦訓練では雲中子自らが練習相手となり、棍や素手による打ち込み稽古を何度も何度も繰り返す。何度訓練を繰り返しても、雷震子は一度として雲中子には触れることすらかなわず、組み手の度に地面に倒れ伏すことになった。
修行は厳しく、毎日一日の終わりには体中が痛くてフラフラになってはいたが、不思議と一晩寝ればほぼ全快していた。栄養のある食べ物を腹一杯食べられているからだと雷震子は思った。
定期的に地下にあるラボで身体データを計測されることも日課のひとつだった。検査着一枚で体中に電極を貼り付けられたまま、コンピュータに表示された画面を前に雲中子がなにやらぶつぶつ言いながら紙の帳面に何かを書き込んでいるのをぼんやりと見上げるのは彼にとっての日常風景となっていた。
そんなふうにして一年が過ぎた。ある日の夕方のこと、相変わらず修行の日々に明け暮れる雷震子を雲中子は己の書斎に呼び出した。
「何の用だよ、師匠」
一年の修行生活ですっかり筋肉もつき、背も伸びて見違えるような姿になった弟子を、雲中子は満足げに一瞥して応える。
「そろそろキミに仕事をしてもらおうと思ってね」
その言葉に雷震子の表情が引き締まる。雲中子は机の一番上の抽斗から一つの薄いファイルバインダーを取り出して雷震子に渡す。開いて中の書類を改めた雷震子の目が若干大きく開かれる。
「こいつは……」
「それが今回のターゲット。あと色々と詳細な情報入ってるから。今の君だったら十分にやれる筈だよ」
「……わかった」
目を通した後、短く答えて雷震子はバインダーを閉じる。呼び出された時点で既にその予感はしていた。それを確認した雲中子が机の二番目の引き出しから紙箱を取り出して渡す。
「あとこれ。今回の相手には必要かと思ってね」
贈答品にありがちな高級な洋菓子を入れるような箱だが、重さからして中身は違うもののようだ。蓋を開けてみると、中に入っていたのは一丁の59式拳銃だった。雷震子は訝しげに首を傾げる。
「チャカ? んなもん無くたって……」
そう言いかけて雷震子は何かに気付いたように口をつぐんだ。手に取って確かめる。その銃には見覚えがあった。
「少し前に手入れはさせたから使える筈だよ。弾丸は一発だけだけど、それで十分だろう?」
「……ああ」
短く答えながら雷震子はマガジンを引き出して確認する。それから再びマガジンを押し込むとスライドを引いて薬室に装填し、安全装置をかけた。それを腰の後ろに手挟むのを待って雲中子が追加する。
「実行は今夜21時。目的地まで車で送らせるから。それまで待機しといて」
「わかった」
そしてその晩、上海市内に林立する高層ビルの中でも一際高いタワーマンションの最上階にて……
「ほお……なるほどこれが」
四十畳はあるリビングの真ん中に設えられた、カッシーナ社製の革張りのソファにゆったりと腰掛けているのはこの天空にそびえ立つ邸宅の主、李伸である。派手な柄のアルマーニのスーツを身に纏い、もはや宝飾品としての用途しかなさなくなった金無垢にダイヤモンドのちりばめられた機械式腕時計を両腕に付け、全ての指に大きな石の填め込まれた指輪を付けたその姿は、ぱっと見た限りでは単なる趣味の悪い成金でしかない。しかしソファの周りを囲むように静かに佇む三人の重武装のサイボーグ達の存在は、彼が堅気の人間ではないことを示している。
「うむ。まだ一部に過ぎぬが製品の開発情報やら特許情報、バイオキシン・メディテックの命脈とも言える最高機密だ」
ローテーブルを挟んだ向かい側のソファにちょこんと座った人物が口を開いた。豪奢な部屋で物々しい重サイボーグに囲まれながらも、その青年は全く萎縮する様子もなく飄々とした態度で柔らかいソファに腰掛けている。彼、太公望は違法合法問わず様々なハッキング行為を繰り返し、当局からの手を逃れ続けている超ウィザード級ハッカーであった。汎用タイプの義体に白いTシャツとジーンズを纏い、まだ少年と呼んでもおかしくないような青年のなりをしているが、そのチタンの脳殻の中身は齢七十を超える老人とも噂されている。
「確かにこの情報が外部に流出したとなれば、天下のバイオキシン・メディテックもお終いだな……」
李伸はタブレット端末の画面を喰い入るように見つめている。そこに表示されていたのは膨大な量のファイルだった。タップして拡大すると社外秘のマークの入った図面や書面が次々と表示される。
「何であればメインサーバへのバックドアも押さえてあるから、クラッキングして更なる情報流出を起こすも意のままにできるぞ。さて、どうかのう」
「なるほどなるほど……いやいやこれだけでも奴の社を潰すには申し分ない。ひとまず約束の報酬を支払わせてもらう」
そう言うと李伸はタブレット端末を操作し始めた。太公望が自分の小型端末を差し出すと、李靖はP2P仮想通貨システムの決済ボタンを押した。互いの端末に送金完了/受信完了の文字が表示される。
「うむ、確かに受け取った」
画面に表示された金額を確認しながら太公望は言った。そこに表示されていたのはこの上海市でも優に一年は遊んで暮らせるほどの額だった。端末をポケットに突っ込みながら立ち上がる。
「さーて、用も済んだことだし、わしはそろそろお暇させてもらうとするかのう」
「おや、もう帰ってしまわれるか。最高級の酒も用意してあるのだが」
「心遣いは嬉しいがわしもこれでも多忙な身ゆえ、今夜の仕事に障るといかん。すまんが失礼させてもらおう」
「む、そうか……おい、お客様をお送りしてこい」
細長いバイザーグラスを装着し、鋼の脚部を持つサイボーグの女に送り出されて太公望が退出した。そのあと李伸は人差し指と中指を肩の上あたりまで掲げる。その意図するところを察した義眼のサイボーグが葉巻に火を付けて指の間に挟んだ。今では存在自体が希少品となったそれを美味そうに一服して専用の細長い灰皿に置いた後、おもむろにローテーブルの上のバカラのショットグラスに手を伸ばす。隣に控える両腕を重機のような義肢に換装した大男のサイボーグがすかさずその隣に置かれていた五十年もののマッカランを手に取り開封し、両腕の先端に取り付けられたマニピュレータは正確にきっかり30ccのウイスキーをグラスに注いだ。それを一口舐めるように口にした後、李伸は満足げに総合を崩す。
「ふふふ……これで奴の幇は潰れたも同然よ……」
そう呟きながらこれで全ての憂いはなくなったとばかりの顔で酒をちびちびと煽った。近年、急激にその勢力を伸ばしてきた終南幇はあっという間に勢力を拡大し、李伸の率いる組織の脅威となっていた。何度か終南幇の幇主である雲中子に対して刺客を差し向けたものの、敵の兵隊は思いの外強いのか、あるいは雲中子の悪運がよほど強いのか、いずれも失敗に終わっていた。そこで李伸は作戦を変えて幇のフロント企業であるバイオキシン・メディテックから潰すことにしたのであった。
「奴ら目の上のたんこぶでしたからね。ですがシノギさえ潰しちまえばどうってことありやせんぜ」
「ハッ、全くだ。金がなければ手足がないのと同じだからな! 世の中金だ! 金! 金!」
そう言って李伸は呵々と大笑した。と、その直後、室内の電源が全てふっと消えた。辺りは暗闇に包まれる。
「ど、どうした、停電か?」
「ブレーカー落ちたんすかね?」
「ちょっとお前予備電源見てこい」
双眼鏡ゴーグルアイの若者が部屋の隅に走って配電盤にとりついた。が、すぐに緊張した声を上げる。
「駄目です、予備電源も動きません!」
次いでリビングの扉が開き、先程エントランスまで太公望を送り出してきたサイボーグがバイザーグラス越しにも分かるほどに血相を変えて入ってくる。
「大変です! オートロックが死んでます! それどころかセキュリティが全部停止してます!」
「何ィ!?」
慌てて李伸は手許の端末を引き寄せる。が、どういうわけだか端末の電源が切れている。そればかりか電源ボタンを押しても再起動しようとすらしない。端末は完全なる金属とガラスの板きれと化していた。
「クソッ! 一体何が……電脳ネットはどうした!?」
端末の電源を何度も押しながら李伸は叫ぶ。一斉に機械が壊れるなど、何らかの電磁的干渉を受けたものとしか考えられない。生体に使われる電脳などは安全のため防御処理がなされていたゆえに部下たちは無事だったようだ。
「駄目です、こっちもオフラインのままです!」
両目に双眼鏡のような義眼を埋め込んだ部下が絶望的な声を上げる。李伸と違い電脳化している彼らの視界には真っ赤な文字でOFFLINEのアラートが点滅していた。
「基地局もやられてるんじゃないのか!?」
「そんな、一体何故……」
一同がパニックになりかけた暗闇の中、窓ガラスの割れる音がリビングに響き渡った。三人のサイボーグは各々の武器を南向きの窓に向かって一斉に向ける。
「よう! 久しぶりだなあ! 李伸よォ!」
粉々に割れたガラスを踏み越え、ルーフバルコニーから何者かが侵入してきた。上層階まで茫洋と届く都市の明かりによるかすかな逆光で顔はよく見えないが、背格好や声からしてまだ年端も行かぬ子どものようにも見えた。
「だ、誰だ!!」
床に尻餅をついた李伸が怯えた声を上げる。部下の一人がようやく見つけてきた懐中電灯を侵入者に向けた。
「おいおいおい、オレ様のこと忘れちまったってかぁ?」
懐中電灯の光が侵入者の顔を照らし出す。黒い拳法着を身に纏い、東南アジア系と思われる褐色の肌、そして逆立った黒髪を持つ少年だった。手には窓ガラスを割ったと思われる長い金属の棒を手にしている。その顔を見た李靖は尻餅をついたまま声を絞り出した。
「ま、まさか……お前はあの時スラムで拾った……!」
「おうよ、思い出してくれて嬉しいぜ!」
顔を見てもすぐには思い出せなかったが、この年頃の子どもで心当たりはたった一人しかいない。一年ほど前に路上で拾い、マカロフ拳銃一挺を持たせて雲中子のところに送り込んだ鉄砲玉だ。子どもであれば相手も油断するだろうと踏んで送り込んだが、案の定失敗したようで戻ってこなかったため、そのまま殺されたものと思っていた。
「馬鹿な……セキュリティはどうした!? 鍵を持たない者にエントランスを抜けられる筈がないし、最上階は生体認証を登録済みの者でなければエレベーターも階段も使えない筈だ!」
「セキュリティだぁ? んなもん外から登っちまえば関係ねえよ」
「な……っ!? 馬鹿な! ここは55階だぞ! 一体どうやって……」
「へっ、内家の軽功術を以てすりゃあ、こんなビル登るなんざ朝飯前よォ」
泡を吹く李伸の詰問に得意げな顔で嘯く。その少年をスキャンモードに切り替えた視界に捕らえた双眼鏡の義眼の若者はあることに気付き、電脳に搭載された近距離用規格のプロトコルを用いて仲間に電通を飛ばす。
『おい、あいつ生身だぞ』
『何だと?』
『マジかい?』
『間違いねえ。義体化はおろか電脳化すらしてやがらねえ。正真正銘の生身だ。オレが一発で片付けてやる』
内家がどうだか言っているが、生身で重サイボーグ三人の前に立ちはだかるとはよほどのバカか自殺志願者としか思えない。三人の意見は瞬時にそう一致した。
「テメエどこの幇の奴だ! 名乗りやがれ!」
李伸を庇うように立ちはだかる大男のサイボーグが吠えた。その間人知れず義眼のサイボーグが両手を腰の脇で構える。少年は胸を張り、堂々と名乗りの口上を上げた。
「終南幇が雲中子の凶手、雷震子。幇主の命により、そこにいる李伸のタマぁとりに来てやったぜ! 覚悟しな!」
「そうかい……じゃ死ねやオラあああああ!」
途端、義眼のサイボーグの両腕が上腕から真っ二つに割れるように展開し、それぞれの掌があった場所から黒い短機関銃の銃口が顔を覗かせるや否や火を噴いた。9mm弾が雨霰とばら撒かれ、窓枠に残っていたガラスの残骸を跡形もなく吹き飛ばす。が、既にそこに雷震子の姿はなかった。
雷震子は床を蹴り天井近くまで跳躍し、サイボーグの背後に降り立っていた。着地と同時に彼の腰部にインプラントされた端子に向かって掌底を突き出す。
「発雷!」
その瞬間、李伸の目に映ったのは紫電を纏いながら壁に向かって吹き飛ばされる部下の姿であった。
「ギャアアアアアアアアア!」
部屋の中に断末魔が響き渡る。至近距離から掌底に載せた電磁パルスは全身の神経に埋め込まれた回路と電子部品全てに電磁誘導を引き起こし、全身を焼き尽くすような激痛を引き起こしていた。義眼のサイボーグはこの世のものとは思えない悲鳴を上げながら壁に激突し、そして動かなくなった。
「サイボーグ殺しの電磁発勁……!? 馬鹿な、まだ使い手が存在したなど!」
「伝説じゃなかったのかよ!?」
動揺する部下たちの背後で、李伸は声もなくただ呆然と目の前で起きたことを見ているしかできなかった。吹き飛ばされた部下は壁に激突したまま微動だにしない。それから思い出したように肉と金属部品の焼け焦げる匂いが漂ってくる。何が起こったのか理解できないまでも、ただ確実な死の気配を李伸は察していた。
「おぉぉのぉぉれぇぇぇぇぇ!」
鋼の腕を持つサイボーグが雄叫びを上げながら雷震子に猛然と突進する。重武装の両腕から繰り出される砲丸のような重い拳の乱打が雷震子を襲う。生身でその渾身の攻撃を食らった人間は何が起こったのか理解する前に粉砕され挽肉と化していたであろう。
「!?」
だがそれは当たればの話であり、当たらなければ全くもってその限りではない。次の瞬間に彼が認識したものは己の懐まで飛び込んだ少年の雷のような視線であった。
「……!」
視認したその瞬間には雷震子の紫電を纏った掌底が重サイボーグの顎を突き上げていた。触れた瞬間、高エネルギーのサージ電流が彼の全身に張り巡らされた全ての電子回路という回路を駆け巡り、焼き尽くす。彼もまた最初の一人同様に断末魔の雄叫びを残しながら絶命した。
「クソっ、内家の小手先の技ごとき……調子に乗るなあああああ!」
重サイボーグの巨体が床にくずおれる瞬間、鋼鉄の脚を持つサイボーグが跳躍し、雷震子に弾丸の如き蹴りを繰り出した。亜音速のその蹴撃は、常人には回避するのはおろか、視認することすら不可能であったろう。だが雷震子は彼女が跳躍した時点で半歩後ろに身を引いてやすやすと回避する。
「おっ、と」
鋼鉄の蹴撃はいとも容易く空振りに終わった。だが脚部強化型のサイボーグの攻撃はそれだけでは終わらず、着地した足を軸に次なる一撃をお見舞いする。その一撃を雷震子は手にした金属の棒で受け止め、軌道をずらす。更に反対側の足による一撃。金棍による受け流し。その繰り返しで室内には金属の激しくぶつかる音と火花と、サイボーグの雄叫びが響き渡る。
「たかが生身の小僧ッ子がああああ!」
重さよりも速力に義体のチューニングを振り切った彼女は前の二人よりも有利であるかに見えた。肉眼では視認不可能な速度で次々と繰り出される蹴りは懐に飛び込ませる隙など全く与えない。雷震子は急所に向かって突き出される蹴りを次々に手にした棒で受け止め間合いの外に受け流しているが、防戦一方で反撃に転ずる様子が見えない。
「アハハハハッ! どうしたよ坊や! そんなんじゃラチが開かないよっ!」
いかに内家の使い手とはいえ、所詮は生身の肉体を持つ人間のこと。彼女にとっては専門の埒外ではあるが、かつて上海を暗躍した伝説の凶手”紫電掌”の噂から色々と情報を得てはいた。電磁発勁は一撃必殺の攻撃である代わりにとんでもなく使い手の生命力を消耗させ、身体の内側から蝕んでいくと聞いた。それを二発も連続で使用していては残された力はそう多くあるまい。力尽きるまで押し切ってしまえば、勝敗が付くのはもはや時間の問題、彼女はそう確信した。
だが彼女は気付いていなかった。圧倒的な速力と剛力で圧倒しているように見せかけて、実は彼女の方が流れに乗せられ力に振り回されているということを。雷震子は防戦一方で敵の攻撃を受け止めるのに精一杯と見せかけて、敵の攻撃がある一つの軌跡に収束するよう、相手にも気付かれないうちに誘導していたことを。彼女の蹴撃は乱れ打ちと見せてその実、知らず知らずのうちに決まり切った軌跡に収斂されていった。
そして鋼鉄の脚が何十回目かの軌跡を辿ったそのときだった。蹴撃を薙ぎ払った雷震子の金棍の先端が突如として軌道を変えて彼女の眼前に飛来し、その眉間を直撃した。
「がっ……!!」
チタンで覆われた頭蓋骨はそれしきの攻撃では全くの無傷であったが、衝撃により視界が乱れる。加えて不意を打たれた事による一瞬の混乱で彼女の動きは一瞬停止した。その一瞬が命取りになる。視界が戻って来た時、彼女の目に映った光景は己の懐に飛び込んで来る雷震子の姿であった。
(……!)
まるでスローモーションのように間延びした認識の中、最期の瞬間の彼女が知覚したのは紫電を纏いながら己の喉元に迫りくる少年の掌であった。空気すら粘つき回避はおろか反応することすら不可能な認識の中、彼女の中では一つの思考が走馬燈のように走った。
(バ、馬鹿な、電磁発勁は一撃必殺の内家の奥義、こんなに連発できるわけが……)
内力は放出すると同時に遣い手の体内にも重大な損傷を与える。ましてや電磁発勁のような人体の限界を遥かに超えた奥義であれば尚更だ。連発など出来よう筈もない。かつて恐れられた電磁発勁の遣い手は内傷を受けそう長くは持たなかったと伝説に伝え聞く。
(こいつは死など恐れていないのか……いやそれともまさか)
その瞬間に目の前が青白色の火花を上げる。間延びした時間の中で脳髄を灼かれるその一瞬は、彼女にとって永劫とも思える無間の地獄であった。体内で沸騰と大爆発の起こる中、全身の神経網を灼熱の炎で炙られる感触を最期に、彼女の生命は終わりを遂げた。
「ぎぃえぇああああああああああ!」
蒼白い光に包まれたかのように見えたのも数ミリコンマ秒分の一のこと、化繊を引き裂くような断末魔の金切り声が薄闇をつんざいた。より数秒遅れて無垢材フローリングの床に倒れ伏したサイボーグから肉の焦げる匂いが漂う。
と、そこにきて、なすすべも無く見ているだけしか出来なかった李伸が音も無く立ち上がった。
「死ねえぇぇええぇぇぇ!」
数々の鉄火場をくぐり抜けてきた李伸に火事場の馬鹿力的な瞬発力が働いたのか、彼の身体は意識する前に動き始めていた。ローテーブルの上に置かれていたマッカランの瓶を掴むと躊躇いもなく机の角で叩き割り、破れた瓶底を刃として、頽れるサイボーグの死体を突き飛ばす憎き小僧っ子の心臓めがけて突進する!
「うお!?」
李伸の決死の一撃を雷震子はいとも容易くかわしたかに見えた。が、意に先んじた決死の一撃はいかに雷震子といえども完全には回避しきれなかったと見え、割れた茶色いガラス瓶は雷震子の左の二の腕をほんの数ミリ削る。
「ぐふぅっ!?」
だが決死の攻撃はそれだけに終わった。次の瞬間に放たれた電光石火の回し蹴りが背骨に直撃し、李伸は呆気なく床に崩れ落ちた。その半秒後、背中を思いっきり踏みつけられる。
「痛ってぇー、ちくしょー油断したぜ」
乱暴に身体を蹴飛ばされ、仰向けにされた後再び胸を踏みつけられる。床に転がった懐中電灯の光に照らされる少年の顔は李伸にとってさながら悪鬼に見えた。踏みつけられて苦しい息の下からなんとか言葉を絞り出す。
「ぐっ……お、お前は、一宿一飯の恩義を仇で返すのか……」
「ん? ああ、確かにあんときゃ世話になったからな。借りたもんも返さねえとなあ」
そう言いながら雷震子は腰の後ろに手を伸ばした。李伸の目が大きく見開かれる。
「! それは……! やめろ! やめてくれ!」
パン、と乾いた音が暗いリビングに響き渡り、次いで硝煙の匂いが充満する。
雷震子は床に転がる懐中電灯を拾い上げると、李伸の大きく見開かれた目を覗き込むようにその光を当てる。眉間に9mmマカロフ弾の弾痕を刻まれた李伸は完全に絶命しており、開ききった瞳孔は収縮することはなかった。
「ほらよ、返すぜ」
標的の死を確認した雷震子は李伸の胸の上に今しがた撃ったばかりの59式拳銃を置いた。そして懐中電灯を切って床に置くと、来たときと同じように割れた窓から出ていく。そしてバルコニーの手すりを乗り越えると夜の上海市の街明かりの中に消えていった。後に残されたのは壊れた機械と人間だった肉塊と、それらに手向けられた線香のように未だ銃口から硝煙を上げる拳銃だけだった。
屋敷の奥にある書斎で、雲中子は机に向かっていた。広い部屋の真ん中に置かれた黒檀の机の上には所狭しと紙媒体の書物や最新の電子書籍デバイスが乱雑に積み上がっている。その本の山に囲まれて雲中子は学術雑誌をめくっていたが、彼の視線は行を追ってはいなかった。
と、そこに静かに扉が開いて誰かが部屋に入ってくる。屋敷の主のいる部屋に入るのにノックをしない者もそれを許しているものもただ一人だ。
「お帰り。首尾はどうだった?」
かけていた眼鏡を外しながら雲中子は視線を扉の方に向けた。そこに立っていたのは雷震子だった。
「上々。室内にいたターゲットと敵のサイボーグ三人、全員あの世に送り込んだぜ」
「そう。ご苦労様」
机の横まで歩み寄ってきた雷震子をちらと一瞥する。二の腕にかすり傷があったが、その血は既に止まっていたようだった。一応手当てしてやるべきかと考えながらも雲中子は別な懸念を口にする。
「何回?」
「四回。入る時に部屋のセキュリティ黙らせるのに一発、敵のサイボーグに一発ずつ」
「四回か。ちょっとおいで」
そう言って雲中子は幼い部下の両手を取り、その脈を測る。そして彼の身体を引き寄せると、その唇に己の唇を重ねた。
「ん……」
雷震子が目を閉じて雲中子の舌を受け入れる。侵入時にバルコニーの外から室内に向かって放った電磁パルスで室内の電子機器を全て破壊、次いでサイボーグに使った電磁発勁が三発。口付けを通して測った彼の体内の気からは、やはり若干の内傷の気配が感じられた。
電磁発勁は体内の生命エネルギーとも言える"気"を源に電磁波的エネルギーに変換するため、通常であればその遣い手も内傷を負う。一度や二度ならまだしも、使い続ければ命を削っていく。連発しようものなら待っているのは間違いなく死だ。それが内功使いの宿命であり、超えられない身体的制約であった。
だがそれに対して雲中子は生物工学的な方法での解決策を図った。雷震子の心肺機能を強化することにより内功使用時の内傷によるダメージを最小限まで減らすことに成功したのだ。外家がサイバネティクス技術で身体を強化するのであれば、内家はバイオテクノロジーの力で身体機能を底上げすればいい。それが彼の辿り着いた結論だった。
「う……」
椅子の上でまたがるように己の膝に座らせた雷震子にふたたび口付け、己の気を送り込む。雷震子は渇いた者が水を求めるように雲中子の唇を夢中で貪ってきた。その身体を抱きしめてやると、服の上からでも分かる強靱な筋肉の弾力が返ってくる。その手応えを確実に感じながら雲中子は思う。一年前に比べると随分と肉付きがよくなってきたと。背も伸びて身体つきもしっかりしてきている。己の手で育て、持てる技を伝授し、作り上げた弟子であり己の功夫と研究成果の一つの完成形。その事実に雲中子は深い満足を覚えた。
先ほどから唇を貪る雷震子が強請るように腰を押しつけてきた。激しい戦いの後で身体が昂ぶっているのだろうか。今夜の仕事の褒美にたっぷりと可愛がってやらねばなるまい。雲中子はそう考えながら雷震子の身体を抱きしめた。
《続》